『事実唯真』
木は自分で動きまわることはできない
神様に与えられたその場所で
精一杯枝をはり
ゆるされた高さまで
一生懸命伸びようとしている
そんな木を友だちのように思う
『愛、深き淵より』星野富弘
わたしたちは、灼熱の季節の街路樹のようだ。酷暑のような神経症の症状に耐え、神さまに与えられたそれぞれの場所で精一杯枝をはり、ゆるされた高さまで一生懸命伸びようとしている。集談会で「人生は苦である。」という言葉をよく聞く。「四苦八苦」「一切皆苦」という言葉もあるのだからそれは事実だろう。しかし、神経症の症状と共に、ずっと苦しい人生を生き抜いてきた。そのこともまた事実である。まぎれもない事実である。
(Uちゃんより)
『母への想い』
母の見舞いに毎週通っている。
ある日、風呂上がりの母を見て言葉を失う。
とても痩せていて、薬の副作用で髪がない。
母は若く、美しく、恐ろしく、そして未熟な人だった。
愛を感じたこともなかったし、良い思い出もない。
しかしその日、母はふらふらしながら私に近づいて
そして頬を撫でながらこう言うのだ。
「可愛いね。本当にかわいい。」
無邪気に笑う顔を見た時、何とも言えない気持ちになって
思わず顔を伏せ、ある小説の一文を思った。
私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。
『沈黙』遠藤周作
私はきっと愛されていたのだろう。
でも、それを知るまでになんと遠回りをしたことか。
遠回りは無駄だったのか。無意味だったのか。
そうではない。遠回りも、症状の苦しみも、予期不安も
眠れない夜も、無駄なことは何一つなかった。
「今日までのすべてが必要だったのだ。」
(Uちゃんより)
『手考足思』
訪問介護のパートを始めて三か月になる。
毎回ハラハラ、ドキドキの連続だ。恐怖突入の連続だ。
いつまで続けられるんだろう。
「こんにちは!お元気ですか。」
元気がない私は、とりあえず大きな声で挨拶をする。
今日はYさんと一緒に空豆を茹でた。
いろんな話をしながら一緒に空豆の皮をむく。
話はたいてい不安な内容である。
病気のこと、将来の事。
生きることの不安を二人で話す。
そのうち、空豆が茹で上がる。
蒸気が上がる台所で私たちは翡翠色の豆をほおばった。
何て美味しいんだろう、いつの間にか不安な心は流れて。
笑顔が広がる。
陶芸家の河合寛次郎の言葉に「手考足思」という言葉がある。
手で考え足で思う。手で土を練り足でろくろを回すうちに想いは形になるということだろうか。
帰宅して一人台所で空豆を茹でる。茹で上がった豆は少し硬かった。
料理上手のYさんにはかなわない。
(Uちゃんより)
『思っていたのとちがうから』
この世界は、自分が思うほど
いいものでも、わるいものでもない。
人に、自分に、世界に、みらいに
期待しすぎたり、しなさすぎたり。
「自分の中のイメージ」と「現実」は
どうしてもずれちゃうのよ。
だから人はいつも、予想がはずれて
びっくりしてる。
つまり人は、「思っていたのとちがう!」って
びっくりするために生きているのよ。
思っていたのとちがうから
世界はつらいし、きびしいし
たのしいし、美しい。
『メメンとモリ』 ヨシタケシンスケ
生きていると、どうしても「こんなはずじゃなかった。」ということがある。
自分の理想どうりの、完全に安心な世界に生きていたい。でも、そんな世界どこにもない。
思うままにならないこと、どうにもならないことをどうにかしようとする時、症状に苦しむのだと思う。森田では、苦しみを苦しみ、不安は不安のままでいいという。
どんなことも自然でいい。でも、苦しみの時、思っていたのとちがうから、世界は楽しいし、美しいと自然に思う事が出来たなら。少し楽になるかもしれない。
(Uちゃんより)
日々草
今日も一つ
悲しいことがあった
今日もまた一つ
うれしいことがあった
笑ったり 泣いたり
望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
そして これらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった
星野富弘
去年の今頃、日々草を植えた。不安で苦しむ私をよそ目に、日々草は赤と白の可愛い花をせっせと咲かせた。台風の後や、酷い暑さの時でさえ花を咲かせ続けた。
今年も日々草を植えようと思う。立派でなくても良いから、不安で苦しくてもよいから、ただ生きて、毎日私なりの小さな花を咲かせ続けたいと思う。
(Uちゃんより)
私にとっての集談会
喜びが集まったよりも悲しみが集まった方が幸せに近い気がする。
強い者が集まったよりも弱い者が集まった方が真実に近いような気がする。
幸せが集まったよりも不幸せが集まった方が愛に近いような気がする。
星野富弘さんの言葉
わたしにとって集談会はこんな場所だと思う。
喜びよりも悲しみが集まり、強い人より弱い人が集まる。
そして幸せよりも不幸せが集まる。
悲しみや弱さ、不安や苦しさ。
そういうものがここにはある。
けれど、だからこそ、幸せや真実そして愛に近いのだと思う。
ここにこれて本当に良かったと思う。
(Uちゃんより)
Japanese Bowl 日本茶碗 ~金継ぎ~ ピーター・メイヤー (岸本早苗訳)
私は昔作られていた日本茶碗のようなもの
いくつもの古いひび割れがあり
そのひびは金で埋められている
茶碗を修復するとき
ひび割れを隠さないで、かわりにそこを輝かせる
私には傷つくたびにできた古い傷跡があり
みんなの目には、もう以前の私ではないように見える
でも収集家の目には
そんなギザギザな線すべてが私をもっと美しくさせ
価値を高める
私はそんな日本茶碗のようなもの
私は古くにつくられて
出典『自分を思いやるレッスン』岸本早苗著
岩田真理さんのJupiterに参加して、大変美しい詩を知った。
今の私はひびだらけの日本茶碗かもしれない。
いつか、そのひびを金で埋め、輝かせる日がくるのだろうか。
(Uちゃんより)
『大根役者でも』
オンライン基準学習会が終わりました。インストラクターの方の
「心はどうであれ、普通にふるまってください。大根役者でもいいから。」
という言葉に大変助けられました。
人生は舞台です。そのほとんどが苦しい舞台です。2024年の舞台からは危うく転げ落ちそうになりました。でもなんとか踏みとどまって演じきりました。(大根役者でしたが)
人生という舞台では、私たちは見ている観客ではありません。舞台の上で演じなくてはならない。それは「行動する」ということかもしれません。不安ですくむ足元、緊張で震える声。それでも、そのままでいたいと思います。それでいいのだと思います。
2025年の幕が上がりました。今年はどんな舞台になるのでしょう。今年も苦しい舞台でしょう。しかし、苦しみを演じるだけでは、人生という舞台はあまりに短い。その幕はあっという間におりてしまいます。だから今年は、顔を上げて少しは笑顔で演じたいのです。大根役者でもいいから楽しく演じてみたいのです。
(Uちゃんより)
傘がない
傘がない。一本も。
その事に昨日気が付いた。
春から夏にかけて強迫症の症状が酷くて
記憶がほとんどない。
スーパーやコンビニに忘れてしまったのだろう。
私の傘はどこへいってしまったのだろう。
『鬱の黒い雨雲がやってきたときはその下で傘をさしておけばよい。』
「生活の発見 12月号」
不安の黒い雨雲がやってきたら、その下で
傘をさしておけばよいということだろうか。
不安は、強迫観念はなくならない。
予期不安は取れないという。
雨と嵐は一生止まない。
ならば私は傘が欲しい。
大きくなくてもいい
立派でなくてもいい
ボロボロでも穴だらけでもいいから
私らしい傘が欲しい。
(Uちゃんより)
事実唯真
梅田原著の会にズームで参加し、初めて山中先生にお会いできました。
とてもびっくりしたことがありました。先生は会の最中に何度も、いいえ何十回も同じ言葉を繰り返されるのです。「それでいいんじゃないんですか。」と。最初(大変失礼なのですが)答えるのがちょっと面倒なのかなと思ったのです。でも、実に絶妙で的確なアドバイスと共に「それでいいんじゃないんですか。」と言われるのです。
最近の私は「行動の原則」にそって頑張りすぎていたように思います。もっともっと頑張ることは、今のありのままの自分を否定することだったかもしれません。たとえば、私が外で働けなくても、家族に美味しいご飯を作れなくなっても、いいお母さんでなくなっても、いつも不安で苦しくてたまらなくても、私は今、ここで生きているのです。それが「事実唯真」なのです。そしてそれだけでもう充分なのです。
山中先生の「それでいいんじゃないですか。」という言葉が、とても嬉しかったのはその言葉が欲しくてたまらなかったからです。それは、私の母が決してくれなかった言葉だったからです。だから私は自分の娘にいつも伝えます。「それでいい。そのままのあなたでいい。」と。
(Uちゃんより)
予期不安
半年前。ある出来事がきっかけで強迫症はひどくなった。
あれから、また同じことが起きたらどうしようという
予期不安にずっと苦しんでいる。
今日ももちろん辛かったし、しんどい一日だった。
一日一日やっと生きている。
私は私の不安が自分を壊してしまうんじゃないかと
怯えているのだと思う。
あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず
試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
『新約聖書コリント信徒への手紙』10章13節
神さまがどんな人かは知らない。けれど、神さまが与えるどんな苦しみにも同時に逃れられ
る道が用意されているという。
もしそれが本当なら、私は安心して苦しんで、安心して生きていけそうな気がしている。
明日、また症状で大騒ぎしているかもしれない。
けれど、とりあえずもう少し生きてみたい。
生きてみたいと思う。
(Uちゃんより)
朝顔と小さな「目的本位」
症状が重くなって半年。私にとって、朝は最も辛い時間です。爽やかな、清々しい朝なんてもちろんありません。起きてから全身だるくて憂鬱で、出来たらずーっと布団にくるまって寝ていたいのです。でも、日常は待ってくれません。仕方がないのでとりあえず朝、顔を洗います。今朝もそうやって顔を洗っていたら、星野富弘さんの「あさがお」という詩を思い出しました。
一本の茎が
一本の棒を登っていく
棒の先には夏の空
私もあんなふうに登っていきたい
星野富弘『あさがお』
とりあえず朝、顔を洗う。気分が悪くても、だるくても、憂鬱でも。
それは小さな小さな目的本位の行動です。「なんだ。わたし頑張っているじゃないか。」
小さく自分を褒めて一日は始まるのです。
いつか星野さんの描く赤い朝顔のように、私も夏の空に登って行けるかもしれない。
今朝はふとそんな気がしたのでした。
(Uちゃんより )
7月の集談会では「欲望と不安」について学習しました。
森田では、人が生きている限り生の欲望は消えないのだから、不安や恐怖を取り除くことはできない。神経症の症状にならないためには、その不安や恐怖になりきることが大切であるといいます。つまり「苦痛になりきること」ができるのなら神経症にはならないという訳です。
集談会で、Nさんが面白いことを言われました。「苦痛になりきる」とはどういうことなのだろうと。本当にそんなことが可能なのだろうかと。確かに苦痛になりきることができれば、もう不安や苦悩を感じなくてもよいでしょう。「なりきること」とはどういうことをいうのでしょう?
その夜、パリ五輪の柔道を見ました。阿部詩さんが二回戦で敗退し、泣いていました。人目もはばからず悔しがり泣いていました。まるで幼い子供のように。 その様子をみて私はハッとしたのです。阿部選手は柔道という競技そのものになりきり、全力を尽くし、そして負けた悔しさになりきって泣いている。
彼女は、悔しさや苦しみ、苦痛をそのまま受け入れ、それから逃れるためのやりくりをなんらすることなく、ただそれになりきって泣いている。私にはそう見えました。そして彼女はその後何もなかったかのようにおにぎりをほおばっていました。まさに「心の流転」です。
「なりきる」とはこのように素直な子供のような心、理屈や判断が入り込まないそのままの感情「純な心」のことを言うのでしょう。この心に善悪はありません。たとえ不安でも苦痛であってもその心はそのままでよいのです。
8月に入り、連日35℃越えの猛暑が続いています。「暑い時は暑さになりきれ」と森田では言われます。しかし、命の危険を感じるような暑さです。現代の私たちはエアコンを適切に使用し、水分補給を心がけ、残りの夏を元気に過ごしたいものです。皆さん、暑い毎日をどうにか乗り切り、次の集談会でお会いしましょう。
(Uちゃんより )